私は、4/27に長野の聖火リレーにおける中国人の応援についての所感を書きましたが、あるブログを読み、あまりの事に愕然としています。
当日参加した日本人のチベット支持者のブログ(mixi)の内容を紹介しています。
転載許可が要らないとのことなので、ここに掲載します。
実際に読んでみて、それぞれがご判断ください。

http://www3.diary.ne.jp/user/338790/ 
さるさる日記―きっこの日記「長野聖火リレーの真実」

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=787996903&owner_id=2071143
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あの沿道を埋めた赤い旗々が、日本政府・警察、マスコミなどの協力によるものだということ、そして、チベット支持の日本人に対する中国人の暴行を傍に居て見ていても無視する警察官、マスコミ。
それが真実なら、あの日の長野は、日本にあって日本ではなかったということです。
善光寺さんの良心を日本人として誇りに思ったのもつかの間、一方で、このようなことが事実としてあったとしたら、とても恥ずかしく無念に思います。



厳戒態勢での長野の聖火リレーが終わった。
チベット問題に関して、善光寺さんが仏教者としての筋を通して、聖火リレーの出発地を辞退したことは、国内外の多くの人々が感銘を受けた。
さすがは宗派を超えた仏教の修行の場であり、平和と平等の法統を守り、千四百年の法灯(御三燈)を消すことなく守ってきたお寺さんである。
日本国内で、チベット問題で抗議行動を起こすのは思想信条の自由だが、聖火を妨害するというのは筋違いだ。
しかし、中国人たちが聖火リレーを応援するというのは、全く奇異なことではないのか。
ランナーを応援するというのはわかるが、動員された大勢の人々が沿道で赤い国旗を振り、聖火とともに走りながら移動して『中国がんばれ』と叫んでいる。
日本国内で日本人が走っているのに、なぜ『中国がんばれ』なのか全く理解できない。
そもそも聖火リレーとは何かという本来の意味を全く失っている。
聖火防衛隊などを組織して他国へ押しかけての越権行為や、留学生などを大挙動員して国旗を振り声援をあげる。
中国政府や中国の人たちは、聖火を“自分たちのもの”と思い込んでいるのではないか。
今回の聖火リレーにも、中国大使館に留学生たちが動員(参加者4,000人)された事が、日本TVの取材でわかったそうだ。
しかも、リーダーという人は、大使館へ胡錦濤国家主席から応援に対するねぎらいの電話があったとカメラに向かって語っていた。
チベット問題以前に、オリンピックの開催国という全く基本的なことが解っていない。
このような認識の国に、オリンピックを開催する資格があるのだろうか。

サッカーの国際試合でもそうだったが、ネットで動員された人たちが大挙して押しかけ、
ナショナリズム丸出しで自国を応援するだけで、相手チームの健闘を称えるというスポーツマンシップも無く、相手チームやそのサポーターを威嚇したり、果ては暴力沙汰に及んだり、とても国際的マナーがあるとは思えない。
また、水泳の金メダル候補の中国選手が、公の場でライバルの他国選手を“ブタ”と呼び捨てるなど、世界の顰蹙を買った。
今回は、聖火防衛隊の越権行為に加え、フランス系のスーパーへの不買運動など、ネット動員された人々が大挙して押しかけている。
その騒乱を見ていると、北京で何かあったら、相手国の関係機関や企業あるいは選手団へ大挙して押しかけ、筋違いな抗議や威嚇などをすることが容易に想像できて、危惧する人たちも多い。
今回、チベットの人権問題に対する抗議を、数に頼んで押し込めようとしたのかも知れないが、それが返って様々な問題を世界にアピールする結果になった。

聖火リレーの問題でも、もっとIOCにはしっかりとイニシアチブを取ってもらいたかった。
前回のアテネは、オリンピック発祥の地なので聖火が五大陸を周る意味も解かるが、IOCは、中国にアテネと同じ事をなぜ許可したのかが解からない。
この五大陸を聖火が通るということと、聖火防衛隊の行為に、中国政府の中華思想(中国は世界の中心で周りを見下す)が垣間見えるようで嫌だ。
アテネから、かつてのシルクロードを通って北京へというコースの方が、歴史的意味もあり、中国でのオリンピックというドラマ性もあったと思うのだが。

中国は悠久の歴史の中で培ってきた先人たちの知恵がある。
広大な領土を、他民族他宗教を、どのように統治して国や民を安んじてきたかは、むしろ封建制での多くの賢帝たちに学ぶところがある。
今の中国共産党独裁は、ある意味では秦の始皇帝時代のようでもある。
文化大革命は現代の焚書坑儒でもあり、多くの有形無形の財産の無くした。
今日の様々な問題の先のあるものは先人の歴史の中にあり、また、それは繰り返すことも中国の悠久の歴史が語っている。


2008.04.18 わすれな草

唐突に「忘れな草」の青い花の色に惹かれて、いくつもの株を買い集めた。
オレンジ系のミニバラとの取り合わせが気に入って寄せ植えにしたり、多きな鉢に忘れな草だけをまとめて植えたりしている。
この花の青は「憂い」の色だという。
名前の由来はドイツの伝説で、騎士ルドルフが恋人のベルダのため、ドナウ河の岸辺に咲く青い花を摘もうとして、急流に落ちて死んでしまう。
流されながら、最後の力をふりしぼって岸辺の恋人にこの花を投げ「私を忘れないで」と言ったとか。
そこで付けられた名前が「Vergiss-mein-nichtl 私を忘れないで」、英名「Forget-me-not」
というわけである。

上田敏の訳詩(「海潮音」)にドイツの詩人ウィルヘルム・アレントの「わすれなぐさ」というのがある。
      ながれのきしの ひともとは みそらのいろの みずあさぎ
      なみ ことごとく くちづけし はた ことごとく わすれゆく

中学の頃、上田敏の訳詩(「海潮音」)のいくつかを友人と競って暗記した。
一番有名なのはポール・ヴェルレーヌの「落ち葉」(秋の日のヴィ[旧カナ:ヰ゛]オロンの ためいきの 身にしみて うらがなし…)だが、この「わすれなぐさ」も忘れられない。
まだ人生もろくに知らず、ただいくつかの詩の音の響や韻律に惹かれ暗記していただけで、この詩も、忘れな草そのものには殆ど興味がわかなかった。
なぜなら、騎士ルドルフの伝説は、小さな花ごときで河で命を落とす間抜けな騎士のおかげで、可憐な花もすっかり興ざめだったのだ。
それよりも、“みそらのいろの みずあさぎ”の「みずあさぎ・水浅葱」という言葉にとても惹かれた。
水浅葱は水色に少し灰色を混ぜた色だ。
いつか、この言葉を使って自分も詩を書いてみたいと思っていた。
それが実現したのはずっと後で、結婚前後の頃、スキー仲間で詩の同人誌を出していて、
5月の頃を詠った詩で使った。
なぜ同人誌かというと、後輩に熱心な者がいてさかんに勧めるので、皆、面白がってその話に乗った。
数年続いて、6冊ぐらい自費出版したが、後輩がグループを抜けたのと、それぞれも社会人として忙しくなり、また結婚・出産などで自然消滅した。

約半世紀を経てめぐり合った忘れな草は、今、みずあさぎの花を沢山咲かせている。
それは、アメリカンブルーのような鮮やかな花色ではなく、ヤグルマギクの青でもない。
日本の風土や伝統の中で培われた日本人の色に対する感性はとても豊かである。
そして、日本固有の色彩や色名はとても豊富だ。
例えば、青系(青・藍・紺)の色彩だけでも40種くらいあって、その一つ一つの名称も詩的だ。
それは、緑系から続く色に新橋色(金春・こんぱる色:新橋芸者に好まれた色)、浅葱、水浅葱、花浅葱、御納戸色(くすんだ緑がかった青)、鉄納戸、藤納戸、水色などがあって、緑の微妙な分量や灰や紫の配合や色の濃淡、明暗によって色合いが違ってくる。
その他にも、空色、天色(あまいろ)、青、群青、秘色(ひそく:青磁色)、覗き色(瓶覗き:藍瓶にほんの少し浸したもので薄い青)、藍、薄藍、濃藍、青藍、褐色(かちいろ:黒く見えるほど色の濃い藍)、青褐、褐返し(他の色を染めた上から藍をかける)、藍鉄、藍錆、縹色(はなだいろ・花田色:浅葱と藍の中間色)、薄縹、浅縹(一番薄い縹)、瑠璃色、紺瑠璃、紺、紺青(こんじょう:群青の紫の多いもの)、紺藍等々、濃淡や明暗、灰や紫の微妙な配合によって違ってくる。
現代では、染色などの専門家でなければ、名前だけでは色彩の想像がつかないものもある。
ちなみに、「忘れな草色」というのもあって、これは紫系である。

ヨーロッパ原産の「忘れな草」は、“私を忘れないで!”というが、日本には古代より「忘れ草」というのがあった。
ユリ科の「ヤブカンゾウ」のことで、中国では「忘憂草」といわれキスゲに似た黄色(オレンジ系)の花は食用(中国食材の「金針菜」)になり、根は薬用になる。
名前の由来は、花が咲いても一日で萎んでしまうためだといわれる。
この花を身につければ、辛い事を忘れられると思われて、数々の古典に登場する。
万葉集の第三巻には、九州・大宰府に赴任した大伴旅人が“懐かしい香具山の故郷を忘れられない辛さを忘れるために、着物の紐に忘れ草を結び着けた”という歌が載っている。
   わすれ草 わが紐につく 香具山の 古(ふ)りにし里を わすれんがため
その他にも、古今集や土佐日記、伊勢物語、源氏物語、その他の古典に多く登場するが、実際には、古人は掛詞や言葉遊びで「忘れ草」という言葉を使っていたということもあるらしい。
“忘れないで”という花は小さく可憐で憂いの色だけれど、“忘れたい”花は大きく黄色の鮮やかな花だ。
ヤブカンゾウの花は好きでも嫌いでもないが、一株に小さい花が密集して、“忘れないで 忘れないで”といつまでも囁かれるよりは、たった一日で“忘れたい 忘れる 忘れた”というほうが、何だかきっぱりとしているように思うのだが。



中国のチベットへの対応に抗議して、「北京オリンピック」の聖歌リレーにあちこちで激しいデモや妨害が起きている。
フランスのサルコジ大統領は、パリでの抗議行動に関して、“民主主義下では当たり前のこと“と述べたとか。
早くから、大統領の開会式不参加などがささやかれてはいたが、さすがは「フランス革命」の自由・平等・博愛の国と感心した。
聖火を護衛する中国の聖火防衛隊は、特殊警察学院の精鋭で総勢70人もいるそうだ。
サンフランシスコでは、直前でコースを変更し、途中から車両で運んだ。
ちなみに、アメリカ政府は聖火防衛隊の聖火に添加する二人のみを残して、後の隊員たちの聖火への接近を拒否し、アメリカだけで警備をしたとか。
日本でも国家公安委員長は『(聖火防衛隊は)歓迎しない』と言っているが、中国からは、デモの禁止やプラカードの禁止、報道規制などを申し入れてきているという。
全く主権侵害も甚だしい。

北京でのオリンピックというと思い出すことがある。
1995年の第4回世界女性会議は北京で開催されたが、当時、中国政府はオリンピックの開催地に立候補して落選し、建設中のオリンピックスタジアムをこの会議に当てて国際的にアピールしようとした。
ところが、趣旨も内容もよく知らないで立候補してしまった。
国連主催の世界女性会議は、第1回開催地は南米・メキシコシティ、第2回目は北欧・オスロ、第3回目はアフリカ・ナイロビで、第4回目はアジア・東京が最有力であったが、中国が立候補したために北京に決定された。

この会議は、国連人権委員会や国連経済社会理事会、国連環境開発会議、世界人口会議などであぶりだされる女性に関する諸問題を各会議を経ての集大成として、課題を明らかにし、その解決のための「行動綱領」の採択までを行う会議であり、同時に各国NGOのロビー活動やフォーラムも開催される。
中国政府がそれを知ったのは会議の半年くらい前で、全く国際的にも馬鹿げた話である。
自国民を様々な面で押さえ込んでいる中国に、平等や人権・権利などを国内に持ち込まれては困ると慌てた政府は、今さら会議開催を辞退することもできず、それまで決まっていたオリンピックスタジアムや北京市内での開催を中止してしまった。
ようやく北京郊外の会場が決まったのは開会の数ヶ月前で、特に各国のNGO団体等が準備していたものが、急遽変更を迫られたり予想がつかなかったりして大変であった。
北京郊外の保養地へ全部を囲い込む事になったのだが、大きな会場が無く、開会式だけはオリンピックスタジアムで開会される事になった。

私も開会式とNGOフォーラムへ参加したが、北京のホテルにチェックインしてから開会式の人数がオーバーしたので参加できないという事を聞かされた。
私は個人で1年前から参加を決めていて、ニューヨークのNGO本部へも参加申し込みをしていたが、航空券やホテルなどは、日本のエージェントであるJTBに申し込んでいた。
JTBには出発の数日前に連絡が入っていたのか、北京に着くまで判らなかったのかは判明しなかったが、最初からミソが付いた。
結局、擦った揉んだの末に最終的には参加できたのだが、入場してみれば広い会場はまだまだ十分余裕があった。
参加できないという理由は、参加者に渡す記念品が参加申し込みの1/3くらいしか用意されていなかったかららしい。
記念品(シルクのハンカチ?)などどうでもよいのだが、足りないとなると当局のメンツに関わるのだろう。

開会式は中国らしい演出で、京劇あり、少数民族の歌や踊り、中国第一のピアニストの演奏やコーラス等々は大変良かったが、肝心の開会宣言やスピーチ等は公安のトランシーバーの音声が同時通訳機に混信して公安の中国語の大声しか聞こえず、何のために日本から予約していったのかもわからなかった。
日本人は一見中国人と見分けがつかないので、中国人との接触を恐れた当局は、私たちをホテルに缶詰状態にして、各階のエレベーターホールには常時監視員が居座っている。
会場とホテルをバスで移動するだけで、外出も許されない。
帰国前日の夜、気軽に食事に出かけた知人たちはすぐ公安に連れ戻された。
ある人は、旧知の中国女性がホテルに訪ねてきたので、ゆっくり話をするため部屋に通してしまったため、すぐ公安がとんで来て大事になってしまった。
欧米系や中東、アフリカ系の人たちが街を歩いているのを横目に見ながら、私たちはバスで移動である。
スタジアム入口でも、私たちは人民兵だか警察だかの人間にロープで止められているのに、怒ったアフリカ系の人たちがロープを乗り越えて入って行っても、彼らたちは言葉が通じないためか、それとも相手の体格に圧倒されたのか阻止しなかった。

フォーラム会場も公安がいたるところにうろうろしていて、一応カメラマンや記者を装っているらしいのだが、あまりの多さとあからさまな態度に、すぐに誰が公安か見分けがついてしまう。
中国で開催されながら、中国女性の一般参加者はいない。
国内には緘口令が敷かれていて、レズの団体が来るなどという情報操作をしていた。
そんな中でも、チベットの女性たちが現状を訴えに来ていたが、中国女性の3〜4人グループを装った監視がうろうろしているのを警戒しながらでは、大した話も出来なかったのではないか。
フォーラムは活発な意見交換や交流などで大変盛り上がったし、政府間会議も揉めに揉めたが最後は合意して、これからの指針となる「行動綱領」の策定と「北京宣言」が出され終了した。
しかし、開催国の中国には何をもたらしたのかはわからない。

帰国の前夜、朝はホテルのフロントが込み合うのを見越して先に精算をしてしまった。
ところが、翌朝出発時間になってもバスが発車しない。
私と友人と二人がまだ精算が済んでいないので、出発できないという。
何かの手違いかと思って慌ててフロントに行くと、寝耳に水の「建設税」なるものを払っていないと言う。
その税の徴収が前から決まっているのなら、JTBからも説明があるはずであるし、前夜の精算時に徴収できたはずであるが、どうも、急遽徴収する事になったらしい。
当時の北京市内は建設ラッシュで、冷房の無いバスの窓から土埃が大量に入ってきて、口の中までざらざらしてくる。
そんな経験をさせられたのに、何で「建設税」まで支払わされるのか。
全く、何でもありのやりたい放題である。
あの建設税が、今回のオリンピックに繋がっているのだろう。
今回の中国念願のオリンピックは、長年のチベットの人権抑圧問題が国際的に注目され、、また1995年の時のように、オリンピックスタジアムを人民兵が周囲を取り囲み、多くの公安がうろうろするのだろう。
中国がオリンピックで国威高揚を狙うのはわかるが、市内の大気汚染の問題や、選手村の食の安全性の問題などは二の次で、大量の犬や猫を虐殺し、言論を抑圧し、情報隠蔽や情報操作をして、表面的には成功させたとしても、後に自国民に何が残るというのだろうか。


2008.04.01 京都行

先週、京都へ行ってきた。
今回は桜が目的ではなく、7才の孫と二人で日帰りという強行軍だったが、子どもの目線での京都も結構楽しかった。
最初は、ディズニーシーへ行こうと誘われていたのだが、アトラクションはめまいの発作が怖くて乗れるものがあまりなく、春休みで人出の多いのも気が重くて勘弁してもらった。
そこで、東武の「スペーシア」に乗って、日光へお猿と猫と象(東照宮の彫刻)を見に行くコースを提案したが断られた。
あれこれ代案を出して、結局、新幹線のN700系に乗りたいと言うので、最終的に京都へ行くことになったのだ。
ところが、孫の春休み中の予定が多くて日程が取れず、日帰りの強行軍となった。

早朝の「のぞみ」で行って、夕方にはまた「のぞみ」で帰るとなると、京都滞在は約8時間半である。
忍者好きの孫の喜びそうな「東映太秦映画村」をメインにして、代表的な金閣寺と清水寺へ寄って帰るというコースにした。
京都駅から映画村まではタクシーで行き、帰りは映画村から観光タクシーの3時間コースで、金閣寺〜清水寺〜京都駅までを回ることにした。
移動に時間がかかるが、なぜこの二ヶ所かというと、金閣寺(鹿苑寺)の金色の舎利殿と、清水の舞台は一度見せておきたかったのと、清水の近くには子どもたちも知っている弁慶の伝説か残っているからである。
清水坂へ通じる松原通りの鴨川にかかる松原橋は旧五條橋で、牛若丸と弁慶がはじめて出合い、闘って弁慶が牛若丸に負けた橋である。
国道一号にかかる現在の五條大橋は、豊臣秀吉が区画整理をしてかけた橋で、五條橋の名前も取り上げてしまった。
ここには、弁慶と牛若丸のモニュメントがあるので、ここが有名な五條橋だと思ってしまうのだが、実は、それよりも一本上流にかかる松原橋が弁慶と牛若丸のゆかりの橋で、大男の弁慶が仁王立ちしたら橋一杯になってしまうような幅の狭い橋である。
また、清水寺には、弁慶の履いたといわれる鉄の大きな下駄や、大きな鉄の錫杖がある。清水坂は、昔話の「一寸法師」が鬼退治をしたところでもある。

京都行が決まってから、男の子が興味を持ちそうなところをレクチャーしながら、一方で、昔の京都は、妖怪や鬼もいる町だったなどと怖がらせておいた。
また、小野篁が、夜ごとに地獄のえんま庁へ通ったという井戸や、えんま様の像がある六道珍皇寺(六道の辻・あの世とこの世の境)、一条戻り橋や千本えんま堂(ここも小野篁と閻魔様の像が祀ってある)の話なども聞かせておいた。
[小野篁は平安時代の高官で詩人で歌人。身長186cm博学多才の人で直情径行、奇行が多かったため、夜はえんま様の書記を務めていたという伝説があり、六道珍皇寺にある井戸から地獄まで行き、嵯峨野の福生寺(廃寺)の井戸からこの世へ戻ってくるといわれていた。
京都には古くは3ヶ所の葬送(風葬)の地があり、東は六道珍皇寺のある清水の辺りの鳥辺野(鳥辺山)、北は千本えんま堂(引接寺)のある蓮台野(船岡山)、西は奥嵯峨野の化野である。
この3ヶ所の近くには、あの世とこの世の境界としてそれぞれ小野篁とえんま様を祀るお寺があるが、怖いえんま様の審判を、小野篁に何とか口添えをしてもらって地獄行きから救ってもらいたいという庶民の願いだろう。]

当日の天気は、当初の予報で曇りのち雨ということだったが、幸にもお天気に恵まれた。
映画村へは午前10時頃に着いたが、春休み中とはいえ平日なので比較的空いていた。
仮面ライダーなどのヒーローショウや、ちゃんばら教室も無かったが、(土日だけ開催)
扮装写真館で忍者の扮装をして写真を撮ってもらったり、「猿飛佐助」の忍者ショウを観たりで、孫はとてもご満悦だった。
また、映画撮影の舞台裏を紹介する「映画のヒ・ミ・ツ、うそ、ほんと」では、監督役と、ヒーローの新撰組隊士と、悪者の忍者の3人の掛け合いが大変面白くて大いに楽しんでいた。
大道芸の「南京玉すだれ」も気に入ってしまって、家にある海苔巻きのすだれでも出来ると思ってしまったようだし、「男たちの大和」の展示にも興味を示していた。
何よりも気にいったのが手裏剣投げのゲームで、3本の十字手裏剣のうち二本が的に当たり、しかも
1本は中心に当たった。
特撮プールでは、水中から怪獣が現れたり、奉行所や牢獄なども見て回って、孫いわく『京都は大人の町だと思っていたけど、こんなに楽しいところがあったなんて知らなかった』。
3Dの忍者アクションの乗り物に乗って、これも大いに楽しかったらしい。
最後は、忍者ショップで手裏剣とクナイのセットと刀をお土産に買って、あっという間の4時間半だった。

午後2時半に映画村の入口へ観光タクシーに迎えに来てもらって、金閣寺へ向かった。
途中の御室は京都でも桜の開花が遅い地域で、仁和寺の門前の桜もまだ蕾だった。
金閣寺の辺りは京都駅から100mの高低差があって、駅の近くでは桜が満開でも、この辺りはまだまだというところか。
京都は歩いて回りたいところだが、坂が多くて体力がないと歩けない。
仁和寺、竜安寺、金閣寺と巡る「きぬかけの道」もかなりの坂道である。
金閣寺は、外国人の団体や個人の観光客が多く、至るところで中国語や英語が飛び交っていた。
今回、孫には使い捨てのカメラで自由に写真を取らせていたが、総門を入ってすぐのところにある鐘楼が気に入って写真を撮っていた。
舎利殿のある鏡湖池の周囲は人が一杯だったが、孫は小さいので人垣の隙間からベストポイントで写真が撮れた。
なぜか舎利殿の裏の方の庭園が気に入って、苔がきれいだとか、木立の奥の方の朽ちかけた東屋や池の鯉などを撮ったり、草むらに日本トカゲを見つけてしばらく覗き込んでいた。
面白いもので一人が覗き込んでいると、いつの間にか同じくらいの小学生が何人か寄ってくる。
わが子だったら『そんなの見てないで早く行くわよ』と言ったと思うが、孫となると行動を観察しながら待っていられる余裕がある。
孫いわく『金閣寺も気に入った』そうである。
京都三大松の一つで有名な舟形の「陸舟の松」も垣根越しだがよく撮れていた。

清水寺へ向かう途中で、松原通りから松原橋を通ってもらった。
車が一台しか通れない幅の狭い橋なので、孫はここで闘ったら川に落ちてしまうのではないかと思ったらしい。(昔はもっと狭かったらしい)
橋を渡って真っ直ぐ行くと六道珍皇寺だが、ここのえんま様はお堂の格子戸越しにしか見えないので、運転手さんの提案で近くの六波羅蜜寺のえんま様を見に行くことにした。
六波羅蜜寺は平清盛の屋敷跡でもあり、念仏を唱える口から六体の阿弥陀様が出ている空也上人立像のあるところでもある。
えんま様は左右に脇侍と脱衣婆(三途の川で亡者の衣服を剥ぎ取る老婆)を従えていた。
運転手さんからは、ミニ知識として龍の見分け方を教えてもらった。
それは、日本の龍は爪が三本、韓国は4本、中国が一番位が高く5本とのこと。
爪を見てどこの国の龍かわかるという話だが、ちなみに龍は、インドのコブラ(最強の蛇)が中国へ
入って龍になったのだそうだ。
この後、すぐに清水へ行ってもよかったのだが、時間があったので運転手さんが、清水寺の裏の方にある西村京太郎邸と山村美沙邸の前を通ってくれた。
山村邸は、今でも娘で女優の紅葉さんが住んでいるとのことで、直接道路に面した玄関の素通しのガラスの中には、表に向けていくつもの胡蝶蘭の大きな鉢と故人の愛用と思われる赤いドレスが飾ってあったが、訪れるファンや観光客へのサービスなのだろう。
八坂から霊山観音のわきの坂道を上って、急坂を下って行くか、三年坂のわきの急坂を登って行くしかないところである。

三年坂(産寧坂)を登りながら、孫に『ここで転んだら三年後に死ぬといわれている』と言って脅かしたので、かなり慎重に階段を上って行った。
坂の途中に枝垂桜がほぼ満開で咲いていて、観光客が皆立ち止まって写真を撮るので、人の流れが詰まっている。
清水坂もかなりきつい坂だが、ラッシュの駅のようにごった返していた。
そのまま、清水の舞台まで人ごみが続いていた。
弁慶の大きな鉄下駄や錫杖の周りも人垣で一杯だったが、何とか近づいて下駄を持ち上げたり錫杖に触ることはできた。
舞台も大勢の人で一杯なので、孫はあまり興味が無いようだった。
舞台から音羽の滝へ下りる急な階段を下りて舞台の下へ行ったが、やはり桜はまだ蕾だった。
孫は、崖の下の谷底や池の水面を撮ったり、山を撮ったりと興味が違うところにあるようだ。
帰りも清水坂の人ごみにもまれ、ソフトクリームを食べながら歩いている人にぶつけられないように気をつけながら、三年坂でも桜で足止めをくいながら何とかタクシーの待っているところまでたどり着いた。
孫の撮った写真の総数は91枚で、中には指がレンズにかかってしまったものやフラッシュを忘れて、暗くなってしまったものなどもあったが、全体として、初めてにしてはまあまあの写真が撮れていて、子どもの目線がわかって面白かった。

次回は、どこへ行こうか、今から楽しみである。