2008.08.31
和歌山のこと
何だか理念もよく解らない新党「改革クラブ」が旗揚げした。
最初は5人での旗揚げで、その内の3人が民主党からの離党で、比例区選出の渡辺某と大江某に岡山選挙区の姫井某だ。
その旗揚げ記者会見で、姫井が突然欠席し、今度は離党を撤回し留まったという記者会見があった。
全く、何もかも、くだらないとしか言いようがない。
大江某は、以前から民主党批判を繰り返し、道路特定財源の一般財源化に対して、また、渡辺某とともに日銀副総裁人事で党と真っ向から対立してきた。
それが、本人の確固たる政治信条ならそれはそれでよいのだが、この人間の胡散臭さや卑怯さと、その背景となる和歌山というところを考えると、色々言いたくなる。
先ず、大江某の民主党批判は今に始まった事ではない。
すでに2年前には、小沢党首批判や『民主党が政権をとったら、日本は一週間で終わる』
等々と発言し、小泉、安倍礼賛をして、離党したいと公言していた御仁である。
そのせいかどうかはわからないが、2年前の県知事選では、民主党県連の最高顧問として強権をふるい、県連の推す候補者(官製談合の解体に取り組んでいた)を強引に退け、野党第一党の民主は候補者無しで、自民の一人勝ちに貢献した。
しかるに、昨年の参院選では、離党したいといっていた民主党比例区で当選しているのである。
全く信も志もなく、保身と損得しかない。
和歌山県は、以前から、いわゆる「和歌山方式」といわれる官製談合、汚職の構造があって、前知事も、競争入札妨害、汚職で逮捕された。
その出直しのための、県知事選であったのだ。
土地柄、土建業者と議員の繋がりは深い。
大江某は、長年県議会議員を務めてもいる。
この県議会は、2000年の衆議院選和歌山1区では、自民党本部が推した故中西啓介(元防衛庁長官)の不支持を表明し、参議院議員の世耕某などとともに県内土建業界を動かし、県議の谷本某を無所属(現自民)で当選させた。
中西氏も、息子の大麻所持や東京相和などのスキャンダルなどもあったが、要は、地元土建業界へ見返りをもたらす人でないとダメなのだろう。
大江某の今回の新党の影の大物といわれる自民の二階某は、和歌山2区選出である。
この方の怪しさも凄い。
かなりの圧力で造らせた、今年完成のいわゆる「二階バイバス」(那智勝浦道路)は、わずか15分の短縮のため多額の血税を使った。
また、政治力で誘致した「グリーンピア南紀」は、赤字で廃止され勝浦町へ所有が移ると、また圧力をかけ、今度は異常な契約で、中国のペーパーカンパニーへ賃貸、その後2015年には無料で引き渡される。
和歌山県は、有名な観光地も農産物もありながら、なぜか県全体が寂れて見える。
それは、道路特定財源等を温存し、土建業者の仕事を増やしても、そんなことではどうにもならないことだ。
数ヶ月前のTVで、市が大規模開発した分譲地が大量に売れ残り、計画では出来るはずだった交通機関もスーパーも何もないところに、当初移り住んだ一部の家族たちが、取り残されたように暮らしている状況を報じていた。
土木工事があっても、口利きの議員と、談合の業者と役人、「天の声」のOBの間で、お金が回っているだけで、何ら地域の活性化にも庶民の暮らしにも恩恵を与えていない。
市内に住んでいる姪から、数年前に来た手紙には、小学校の教室に暖房設備はストーブさえなく、冬は、子どもたちがコートやダウンを着たまま勉強をしていると書いてあった。
東京で生まれ育って、教室にはエアコンがあるのが当たり前の時代に育った姪には、大変驚く事だったので、わざわざ手紙に書いてきたのだろう。
ちなみに、和歌山市の12月〜2月の平均気温は6〜5度である。
3月も8度ほどである。
校舎の耐震化は、どの程度進んでいるのだろうか?
大江某も、プロフィールにわざわざ「教育学士」などと載せているのなら、せめて道路財源を一般財源化して、和歌山の子どもたちの教育環境を整える事を考えてもらいたいものだ。
しかし、恥も外聞もなく、利権にどっぷり浸かって新党など創る輩には、何を言っても無駄だろう。
和歌山の人たちが、自ら変えるしかないのだ。
2008.08.21
ある男
昨日、TVのニュース番組で、偶然ある企業の名を聞き、思いがけない男の顔を見た。
それは、原油高騰の折、企業努力をしている経営者という内容だったが、私にとっては、大風呂敷のとんだ食わせ者でしかなく、アップでその顔を見るのは、何年経ってもやはり嫌なものだった。
7年前、某区の議員からある公演の企画を持ち込まれ、その企画の後援者で協力者だといって紹介された男だ。
ある企業の代表で、地元でも名士であり、法人団体の青年部長だという。
また、その議員の個人的な後援者だという。(法人団体が、別の政党の支持団体なので)
私は、その二人から、まるで詐欺のように騙され、酷い目にあった。
その議員は、今から14年前に、私たちの活動に興味があるとの事で、ある人の紹介で入会してきた。
まだ30代前半で、真面目で熱心な女性だと思っていた。
その彼女が、どうしてもやりたいという企画を持ち込んできたのである。
それまでの彼女を見てきて、何とかやらせてやりたいと思った。
しかし、当時、寝たきりの姑の介護や娘が出産で里帰り中と重なるため、私はそうそう動き回れない事、彼女の地盤である某区には、私たちの活動の基盤が無いため、資金援助やボランティアスタッフの協力や、集客は無理だという話をした。
それに対し、某区の教育長も賛成で、教育委員会の後援も受けられる事や、資金面と集客等はその法人団体の組織が援助してくれると紹介されたのだ。
騙される方も迂闊だったかも知れないが、初対面だったら、簡単には話に乗らなかったと思う。
しかし、以前からの知り合いの、しかも議員という公職にある者が、まさか嘘やはったりで人を騙すとは思いもよらなかったのである。
資金面については、その組織の複数の支部からの具体的な金額まで聞かされていた。
しかし、公演まで2ヶ月をきった頃から、彼女の態度がおかしくなった。
電話は全く通じなくなり、留守電に伝言を入れても、FAXを送っても連絡が取れない。
彼女の有力な後援者の子どもを出演させるよう依頼してきたので、演出に無理を言って割り込ませたにもかかわらず、その子の連絡先さえ教えない。
その事で、演出や他の出演者にどれだけ迷惑をかけているかということを、FAXすると、いきなり電話で、理不尽な事をあれこれヒステリックにまくし立てたりする。
また、当初、ボランティアスタッフとして名前を挙げていた人たちの連絡先を教えてくれない等々、様々に疑惑が浮かんだ。
それでも、資金面を聞くと、各団体からの助成の具体的な金額まで挙げる。
日にちはどんどん過ぎていくのに、教育委員会の事も、すべての話でラチがあかない。
各団体の助成も話が怪しくなってきた。
結局、この話を一から知りたいと思い、興信所で調べてもらう事にした。
今までの人生で、興信所などとは全く縁がなかったので、いざ依頼するとなると、どこへ頼んだらよいかわからない。
興信所もピンからキリまであって、中にはヤクザのようなところもあると聞く。
そこで、電話帳で探し、日本橋の室町にある興信所に頼む事にした。
室町の日銀のそばなら、主に企業関係の調査をする所なのではないかと思い、それなら少しは安心できるのではないかと思ったからだ。
電話で予約してその事務所へ行き、受付の担当者との面接で事情を話した。
だが、話しをしているうちに、自分のうかつさや馬鹿さ加減がよく解ってくる。
実際に調査を担当する調査員も加わって、調査内容について色々アドバイスをしてくれた。
それは、今後の活動もことも考えて、陰で調査をするよりも、堂々と教育委員会や各団体に、「後援や助成が受けられなかったのは、どんな問題点があったのか、今後の参考のために、ぜひお教えいただきたい」と聞きに行くのが最良だというものであった。
また、「当事者が聞きにいっては言いにくい事もあると思うので、第三者として調査会社が聞きに来た」という形なら角が立たないだろうと言う。
一つ一つ納得のいくことばかりで、信頼できる興信所であった。
調査が始まって二日ぐらいで、例の大風呂敷のインチキ男から恫喝の電話がかかってきた。
今まで、直接話をしたことも無かったのに、いきなり『何を調査しているんだ』と、電話口で怒鳴っている。
『そんな事をしていると、どうなるかわからないぞ』と言う。
私の方は、話の筋道が見えないので、いくら話しても話が噛み合わない。
それから、一日に何度も恫喝の電話が入るので、興信所へ電話を入れた。
担当者が事情を説明するので、また電話があったら、男へ直接電話をするよう伝えろという指示があったが、男は興信所へは電話を入れなかったようだ。
どうも、私が、彼女とその男の不倫の調査をしていると勘違いをしたらしい。
そして、私がその男の家へ押しかけるとでも思ったらしい。
後から考えると、???という事がいろいろあったけれど、他人の私生活など興味が無いし、ましてや他人の事で、高い調査費を払うほど酔狂ではない。
しつこく恫喝などしなければ、私は他人の不倫など気がつきもしなかっただろう。
調査結果は、あきれ返るほど、話のすべてが嘘だった。
教育長は、その議員と企画はおろか殆ど話もしたことも無かったし、教育委員会には後援の申請どころか話さえ出されていなかった。
各団体も、全く話を聞いていないどころか、その議員も知らないと言う。
男が青年部長という役職は間違いないが、会議も殆ど出てきたことがないと言う。
団体の方は突然の話に驚き、よく事情がわからず、会長や事務局からその男へ問い合わせが入り、その議員との関係などを聞かれたので、不倫の調査をされていると勘違いをして慌てたらしい。
それで、私を恫喝すればどうにかなると思ったとしたら最低の馬鹿男だ。
彼女自身は、結局、自分では何一つ形にしていく実力が無いのに、周りがチヤホヤしてやってくれる事を、自分の実力と勘違いしていたのだろう。
だから、この大風呂敷のインチキ男の嘘に騙されてしまったのだ。
また、この男は、それを餌に若い彼女を釣ったのだろう。
その嘘が、彼女にも解ってきたから、すでに2ヶ月以上前から子役やボランティアの話も無く、連絡先も教えることができなかったのだろう。
これが、議員という公職について血税をもらっているのだから、某区は全く気の毒の限りだ。
その後、彼女は、周りから言われて、やっと私へ通り一遍の詫び状を出したきりだ。
そして、落選し、今は何をやっているかわからない。
離婚して子ども二人を抱えているのか? それとも、夫とのよりが戻ったのか?
この最低の男女に騙された私は大いなる愚か者だが、そのお陰で多くの勉強が出来たし、多くの友人知人に助けられて、その公演も無事に終らせることが出来た。
そして、その後も、多くの人に助けられ活動を続けることが出来た。
2008.08.09
北京五輪「開会式」
北京五輪の開会式をTVで見た。
八月八日の午後八時(日本時間・午後9時)からという八にこだわった開会だったが、いろいろな意味で中国らしいと思った。
一つは、二酸化炭素の削減など“どこ吹く風”、4時間を越える祭典で、メイン会場のほか、天安門広場をはじめ、北京市内のあちらこちらや万里の長城などで、幾度となく上がる花火の数々は、これだけでも数億円になるだろう。
二つ目は、LED とコンピューターによる電飾マスゲームなど、延々と続くパフォーマンスの電力消費量だ。
三つ目は、そのパフォーマンスの一つひとつが、800〜1,000人の人海戦術で行なわれている。
ちなみに、それぞれの趣向を凝らした衣装代も莫大なものだろう。
中国だからこそ、たった一夜の出来事に、舞台装置も含め、何万という人を練習時間も含めて拘束できるのだろう。
四つ目は、パフォーマンスが、中国の優位性を世界にアピールするという内容に終始している事だ。
中国の四大発明といわれる1.火薬(花火で表現しているのか) 2.紙 3.印刷 4.羅針盤を、それぞれ延々と続くパフォーマンスで見せ、その間に、シルクの発祥の地である事をアピールしたり、世界遺産の万里の長城や兵馬俑を表現したりと、実に盛りだくさんだった。
そして、極めつけは有人衛星のパフォーマンスだ。
五つ目は、翌日からいくつもの種目の競技が始まるのに、深夜に及ぶ長時間の開会式の非常識さだ。
さすがは、国の威信の前には、人間など眼中にないお国柄がよく現れている。
そもそも、これはオリンピックの開会式であって、中国の国威発揚のお祭りではないと思うのだが、聖火リレーもそうだったが、勘違いしているとしか思えない。
子どもたちに、様々な少数民族の衣装を着せて五輪旗を持たせたりして、「一つの中国」を盛んにアピールするが、すでに、世界中にチベット問題や新疆ウイグル自治区の事などは知れわたっている。
また、明の時代から続く、北京の下町ともいうべき胡同(フートン)が、オリンピックための再開発で、一部を残して強制移住・撤去されていることや、期間中、北京の水を確保するために、周辺の稲作を、昨年からトウモロコシに転作させたりと、庶民の生活など二の次ということは、多くの海外のメディアにも取り上げられている。
また、地方の庶民のガス抜きのために、役人の不正を中央に訴えに来る人たちのための直訴村が、オリンピックのために取り壊され、人々は地方の警官たちに連れ去られている。
開会式の“紙の発明”のパフォーマンスで、竹簡(紙が発明される前、細い竹の札に文字を書き付けたもの、糸でいくつもつなげて書物を作る)を持った孔子の弟子に扮した人たちが登場し、このパフォーマンスの間中、ずっと論語の一説を唱えていたが、今の中国の指導者たちにこそ、孔子の教えが一番必要なのではないか。
印刷を表したものでは、一人一人が中に入った何百もの活字のパフォーマンスで、「和」という文字を様々に浮き上がらせていたが、この国での「和」とは、何と空しいことか。
この開会式のこの上なく大規模で華やかなパフォーマンスは、孔子の云う「巧言令色鮮(すくな)し仁=言葉を飾り、表情を穏やかにしても、誠実さは無い」の通りで、まさに最大の皮肉というほかはないだろう。
八月八日の午後八時(日本時間・午後9時)からという八にこだわった開会だったが、いろいろな意味で中国らしいと思った。
一つは、二酸化炭素の削減など“どこ吹く風”、4時間を越える祭典で、メイン会場のほか、天安門広場をはじめ、北京市内のあちらこちらや万里の長城などで、幾度となく上がる花火の数々は、これだけでも数億円になるだろう。
二つ目は、LED とコンピューターによる電飾マスゲームなど、延々と続くパフォーマンスの電力消費量だ。
三つ目は、そのパフォーマンスの一つひとつが、800〜1,000人の人海戦術で行なわれている。
ちなみに、それぞれの趣向を凝らした衣装代も莫大なものだろう。
中国だからこそ、たった一夜の出来事に、舞台装置も含め、何万という人を練習時間も含めて拘束できるのだろう。
四つ目は、パフォーマンスが、中国の優位性を世界にアピールするという内容に終始している事だ。
中国の四大発明といわれる1.火薬(花火で表現しているのか) 2.紙 3.印刷 4.羅針盤を、それぞれ延々と続くパフォーマンスで見せ、その間に、シルクの発祥の地である事をアピールしたり、世界遺産の万里の長城や兵馬俑を表現したりと、実に盛りだくさんだった。
そして、極めつけは有人衛星のパフォーマンスだ。
五つ目は、翌日からいくつもの種目の競技が始まるのに、深夜に及ぶ長時間の開会式の非常識さだ。
さすがは、国の威信の前には、人間など眼中にないお国柄がよく現れている。
そもそも、これはオリンピックの開会式であって、中国の国威発揚のお祭りではないと思うのだが、聖火リレーもそうだったが、勘違いしているとしか思えない。
子どもたちに、様々な少数民族の衣装を着せて五輪旗を持たせたりして、「一つの中国」を盛んにアピールするが、すでに、世界中にチベット問題や新疆ウイグル自治区の事などは知れわたっている。
また、明の時代から続く、北京の下町ともいうべき胡同(フートン)が、オリンピックための再開発で、一部を残して強制移住・撤去されていることや、期間中、北京の水を確保するために、周辺の稲作を、昨年からトウモロコシに転作させたりと、庶民の生活など二の次ということは、多くの海外のメディアにも取り上げられている。
また、地方の庶民のガス抜きのために、役人の不正を中央に訴えに来る人たちのための直訴村が、オリンピックのために取り壊され、人々は地方の警官たちに連れ去られている。
開会式の“紙の発明”のパフォーマンスで、竹簡(紙が発明される前、細い竹の札に文字を書き付けたもの、糸でいくつもつなげて書物を作る)を持った孔子の弟子に扮した人たちが登場し、このパフォーマンスの間中、ずっと論語の一説を唱えていたが、今の中国の指導者たちにこそ、孔子の教えが一番必要なのではないか。
印刷を表したものでは、一人一人が中に入った何百もの活字のパフォーマンスで、「和」という文字を様々に浮き上がらせていたが、この国での「和」とは、何と空しいことか。
この開会式のこの上なく大規模で華やかなパフォーマンスは、孔子の云う「巧言令色鮮(すくな)し仁=言葉を飾り、表情を穏やかにしても、誠実さは無い」の通りで、まさに最大の皮肉というほかはないだろう。
2008.08.06
母に子を戻す 〜シュメールの再チャレンジ政策
自民党の麻生幹事長が、民主党の参議院での過半数による審議拒否をめぐって、『ドイツはナチスに、一度やらせてみようと、政権を与えてしまった』と言ったという。
政権政党の幹事長にして、この程度の認識なのかと思うと、この国のあり方について暗澹たる思いを禁じえない。
もし民主党がナチスに例えられるのなら、その生みの親は、長年の高級官僚の既得権益や、様々な不祥事に手を貸してきた、また、自らもそれに手を染めてきた政権政党である自民党であり、近くはセーフティーネットも無しに行った小泉内閣による、一部の人間(勝ち組)だけが得をする恣意的な改革である。
また、それを「改革」「改革」と囃し立て、事の本質を国民に知らせなかったマスメディアの責任も大きい。
しかも、本質を知ろうともせずに、改革という熱に浮かされ、身近な特定郵便局を標的として、郵政民営化選挙で自民党を圧勝させたあの熱気の方が、ナチス台頭の背景に近いだろう。
ナチスは、第一次世界大戦に負け疲弊し、また世界恐慌で疲弊したドイツ国民に、人種主義(アーリア人の優秀性)と福祉政策を掲げ、一方で軍事力の増大を掲げた。
うちひしがれていた国民は、それを熱い思いで支持し、ヒットラーというモンスターの出現を許した。
しかし、その中身は、強大な中央集権であり、劣性民族としてのユダヤ人やジプシーの迫害やジェノサイド、障害者や同性愛者の排除(優性主義)、精神病やアルコール依存などは遺伝的欠陥者として断種法によって排除する事だった。
失業率の減少も掲げたが、それは、女性を労働市場から追い出し、代わりにそこへ男性を入れ、統計からは女性を排除する事で、失業率を下げるというカラクリを使った。
そんなまやかしにドイツ国民は騙され、結果的に自らを窮地に陥れ、何もかも失った。
麻生幹事長の例えはあまりにもかけ離れていて、発言は、不見識という範疇を遥かに超えている。
これが、次期総理候補とは情けなく、国の将来は真っ暗闇だ。
かつての総裁選で、少しでも期待してしまった事を後悔するばかりだ。
古代メソポタミアのシュメールの王たちは、富の偏重とそれによる格差の拡大が、社会不安を招き、やがて政権崩壊につながる事を知っていた。
シュメールが人類最古の都市文明といわれるのは、「社会を安定させる」という思想を持っていたからではないかと思われる。
王たちは、都市の守護神から王権を委託され、神の秩序の元に、社会の安定と経済の安定を図る事を第一義とした。
そして、貧富の差の拡大を防ぐための社会的弱者救済策が、【母に子を戻す(自由を付与する)子に母を戻す】という債務からの自由・原状回復政策、あるいは、再チャレンジ政策なのである。
また、未亡人や孤児なども庇護した。
これらは、神から定められた本来あるべき都市の姿へ戻すことが、国の安定、自らの政権の安定と強化にもつながると考えられていたからである。
孔子は「論語」の中で、[国を有(も)ち家を有つ者は、寡(すく)なきを患(うれ)へずして、均(ひと)しからざるを患ふ。貧しきを患へずして安からざるを患ふ]とある。
これは、“為政者は、国力の少ない事よりも、民衆間の富の分配に不公平の無いように配慮する。国が貧しいということを心配するよりも、民衆が安心・安定して暮らせるよう配慮する。(それを怠ると国は衰退する)”というような意味だろう。
今から5,000年近く前、シュメールの都市国家ラガシュの王エンメテナは、世界最古の「徳政令」を行ったといわれる。
それは「奴隷解放」である。
シュメールは、それほど厳格ではないが身分社会であり、自由民の下に奴隷がいた。
奴隷は4種に分かれていて、1.債務奴隷 2.犯罪奴隷 3.購入奴隷 4.捕虜奴隷である。
債務奴隷は、市民が債務を負ったために奴隷に落とされたものである。
犯罪奴隷は、犯罪を行った本人や家族が、被害者の奴隷となるものである。
購入奴隷は、商人が外国から買ってきた奴隷である。
捕虜奴隷は、戦いに負けて捕虜となった異民族である。
神殿の落慶などを機会として、債務奴隷と犯罪奴隷を自由にした。(購入奴隷と捕虜奴隷はどうなったのか、記録が無いので解明されていない)
これは、古代ギリシャのアテネでも、ポリス(都市国家)の安定を図るために奴隷解放が行われた。
売られた土地を元の所有者に戻し、債務を免除することは、後の「旧約聖書」レビ記の「ヨベルの年」(7年毎の安息の年を7回経た後の年=50年目の年)へとつながって行く。
また、世界最古の法典といわれる「ウルナンム法典」(ウル第三王朝ウルナンム王・紀元前2,112〜2,095年)の序文には、未亡人や孤児の庇護がうたわれている。
ちなみに、この「ウルナンム法典」の形式は、後のバビロン第一王朝(シュメールが蔑視した北西セム語族のアモリ人の王朝)のハンムラピ王(ハンムラビではなく、ハンムラピがより近い発音といわれる)の「ハンムラピ法典」の原型となったものである。
しかし、内容は、「ハンムラピ法典」は“目には目を、歯には歯を”の通り、「同害同復讐法」であるが、シュメールは同害同復讐ではなく、殺人や強盗や強姦、不倫などは死罪だが、その他の傷害や、離婚などは賠償(銀で支払う)によって償った。
「徳政令」は、その背景として、度量衡の統一による税制改革、定期的な検地、大規模な灌漑による農地の拡大など、行政、経済を統括する官僚機構の確立によって、はじめて公正に実行できるものである。
日本では、「永仁の徳政令」が有名であるが、これは鎌倉幕府が、二度にわたる元寇とその後の警備などで、財政的に破綻、逼迫した御家人たちを救うための「徳政令」である。
元を相手の戦では、勝利したとはいえ、幕府は論功行賞の所領を御家人たちに与える事が出来ず、このままでは、幕府が瓦解するため、御家人たちが戦費を賄うために手放したと土地などを、元の所有者へ戻させたものであり、シュメールの徳政とは、少し事を異にしている。
福田内閣も、ネットカフェ難民の再チャレンジ政策を打ち出したが、どこまで効果のあるものなのかは疑問である。
この国には、シュメールの王たちが希求した、平安と豊穣、社会の公正と正義は、死語となってしまったのかと思うこのごろである。
政権政党の幹事長にして、この程度の認識なのかと思うと、この国のあり方について暗澹たる思いを禁じえない。
もし民主党がナチスに例えられるのなら、その生みの親は、長年の高級官僚の既得権益や、様々な不祥事に手を貸してきた、また、自らもそれに手を染めてきた政権政党である自民党であり、近くはセーフティーネットも無しに行った小泉内閣による、一部の人間(勝ち組)だけが得をする恣意的な改革である。
また、それを「改革」「改革」と囃し立て、事の本質を国民に知らせなかったマスメディアの責任も大きい。
しかも、本質を知ろうともせずに、改革という熱に浮かされ、身近な特定郵便局を標的として、郵政民営化選挙で自民党を圧勝させたあの熱気の方が、ナチス台頭の背景に近いだろう。
ナチスは、第一次世界大戦に負け疲弊し、また世界恐慌で疲弊したドイツ国民に、人種主義(アーリア人の優秀性)と福祉政策を掲げ、一方で軍事力の増大を掲げた。
うちひしがれていた国民は、それを熱い思いで支持し、ヒットラーというモンスターの出現を許した。
しかし、その中身は、強大な中央集権であり、劣性民族としてのユダヤ人やジプシーの迫害やジェノサイド、障害者や同性愛者の排除(優性主義)、精神病やアルコール依存などは遺伝的欠陥者として断種法によって排除する事だった。
失業率の減少も掲げたが、それは、女性を労働市場から追い出し、代わりにそこへ男性を入れ、統計からは女性を排除する事で、失業率を下げるというカラクリを使った。
そんなまやかしにドイツ国民は騙され、結果的に自らを窮地に陥れ、何もかも失った。
麻生幹事長の例えはあまりにもかけ離れていて、発言は、不見識という範疇を遥かに超えている。
これが、次期総理候補とは情けなく、国の将来は真っ暗闇だ。
かつての総裁選で、少しでも期待してしまった事を後悔するばかりだ。
古代メソポタミアのシュメールの王たちは、富の偏重とそれによる格差の拡大が、社会不安を招き、やがて政権崩壊につながる事を知っていた。
シュメールが人類最古の都市文明といわれるのは、「社会を安定させる」という思想を持っていたからではないかと思われる。
王たちは、都市の守護神から王権を委託され、神の秩序の元に、社会の安定と経済の安定を図る事を第一義とした。
そして、貧富の差の拡大を防ぐための社会的弱者救済策が、【母に子を戻す(自由を付与する)子に母を戻す】という債務からの自由・原状回復政策、あるいは、再チャレンジ政策なのである。
また、未亡人や孤児なども庇護した。
これらは、神から定められた本来あるべき都市の姿へ戻すことが、国の安定、自らの政権の安定と強化にもつながると考えられていたからである。
孔子は「論語」の中で、[国を有(も)ち家を有つ者は、寡(すく)なきを患(うれ)へずして、均(ひと)しからざるを患ふ。貧しきを患へずして安からざるを患ふ]とある。
これは、“為政者は、国力の少ない事よりも、民衆間の富の分配に不公平の無いように配慮する。国が貧しいということを心配するよりも、民衆が安心・安定して暮らせるよう配慮する。(それを怠ると国は衰退する)”というような意味だろう。
今から5,000年近く前、シュメールの都市国家ラガシュの王エンメテナは、世界最古の「徳政令」を行ったといわれる。
それは「奴隷解放」である。
シュメールは、それほど厳格ではないが身分社会であり、自由民の下に奴隷がいた。
奴隷は4種に分かれていて、1.債務奴隷 2.犯罪奴隷 3.購入奴隷 4.捕虜奴隷である。
債務奴隷は、市民が債務を負ったために奴隷に落とされたものである。
犯罪奴隷は、犯罪を行った本人や家族が、被害者の奴隷となるものである。
購入奴隷は、商人が外国から買ってきた奴隷である。
捕虜奴隷は、戦いに負けて捕虜となった異民族である。
神殿の落慶などを機会として、債務奴隷と犯罪奴隷を自由にした。(購入奴隷と捕虜奴隷はどうなったのか、記録が無いので解明されていない)
これは、古代ギリシャのアテネでも、ポリス(都市国家)の安定を図るために奴隷解放が行われた。
売られた土地を元の所有者に戻し、債務を免除することは、後の「旧約聖書」レビ記の「ヨベルの年」(7年毎の安息の年を7回経た後の年=50年目の年)へとつながって行く。
また、世界最古の法典といわれる「ウルナンム法典」(ウル第三王朝ウルナンム王・紀元前2,112〜2,095年)の序文には、未亡人や孤児の庇護がうたわれている。
ちなみに、この「ウルナンム法典」の形式は、後のバビロン第一王朝(シュメールが蔑視した北西セム語族のアモリ人の王朝)のハンムラピ王(ハンムラビではなく、ハンムラピがより近い発音といわれる)の「ハンムラピ法典」の原型となったものである。
しかし、内容は、「ハンムラピ法典」は“目には目を、歯には歯を”の通り、「同害同復讐法」であるが、シュメールは同害同復讐ではなく、殺人や強盗や強姦、不倫などは死罪だが、その他の傷害や、離婚などは賠償(銀で支払う)によって償った。
「徳政令」は、その背景として、度量衡の統一による税制改革、定期的な検地、大規模な灌漑による農地の拡大など、行政、経済を統括する官僚機構の確立によって、はじめて公正に実行できるものである。
日本では、「永仁の徳政令」が有名であるが、これは鎌倉幕府が、二度にわたる元寇とその後の警備などで、財政的に破綻、逼迫した御家人たちを救うための「徳政令」である。
元を相手の戦では、勝利したとはいえ、幕府は論功行賞の所領を御家人たちに与える事が出来ず、このままでは、幕府が瓦解するため、御家人たちが戦費を賄うために手放したと土地などを、元の所有者へ戻させたものであり、シュメールの徳政とは、少し事を異にしている。
福田内閣も、ネットカフェ難民の再チャレンジ政策を打ち出したが、どこまで効果のあるものなのかは疑問である。
この国には、シュメールの王たちが希求した、平安と豊穣、社会の公正と正義は、死語となってしまったのかと思うこのごろである。
2008.08.03
バビロンまでは 何マイル?
バビロンまでは 何マイル?
60マイルと 10マイル
ろうそくの明かりで 行けるかな?
行って 帰ってこられるよ
足がはやくて 軽ければ
ろうそくの明かりで 行けるとも
マザーグース(イギリスの童謡・古謡集)の中の歌である。
夜、子どもが眠る前に、そばにいる大人へ問いかけ、それに子守唄のように応えている情景を思い浮かべる。
小学生の頃、考古学者になってメソポタミアへ行きたいと思っていた。
なぜ、メソポタミアだったのか、今では全く覚えていない。
1960年代、ロンドンからネパールのカトマンズまで行くバスルートがあった。
それは「ヒッピーロード」と呼ばれ、ヨーロッパのヒッピーの若者たちの巡礼路であった。
その後、インドのデリー〜ロンドン間のルートも出来た。
いつか、そのバスへ乗ってシルクロードを西へたどり、東ローマ帝国の首都コンスタンティンノープル(イスタンブール)まで行ってみたかった。
パキスタンのイスラマバードを通り、ペシャワルでガンラーダへ寄って、カイバル峠を越えて、アジアハイウエーをアフガニスタンのカブールへ。
そこから、バーミヤンへちょっと寄り道をして、テヘランからはザグロス山脈を越えてバグダット、そしてバビロンへ。
それから、北のアッシリア帝国のニネヴェの都に立ち寄って、パルミナ、アレッポへ行ってアナトリアへ等々と、全く行ける見込みは無いが、いつかはという夢を抱いていた。
そのうち、旧ソ連のアフガン侵攻があり、それ以来このルートは途絶えたままだ。
よくよく考えてみると、私の興味は広い意味ではメソポタミアだが、それは南部のバビロニアではなく、北部のアッシリアだったり、アナトリアのヒッタイト王国だったりする。
最近、思い立って、またメソポタミアを少し学び始めた。
メソポタミアはギリシャ語で「川の間の土地」という意味である。
それは、東にティグリス川、西にユーフラテス川の二つの河に挟まれた土地で、人類最古の文明の発祥地である。
この二つの河は、北の東タウルス山脈を水源として、ユーフラテスは西アジア最長の川となり、ティグリスは急流の暴れ河となって、ともにペルシャ湾へ注ぐ。
現在は、河口近くで一つとなりシャットル・アラブ川となってペルシャ湾へ注ぐが、古代では、海はもっと内陸にあり、二つの川は分かれたままペルシャ湾へ注いでいた。
北方を西から東にかけて1,000mから2,000m以上の山に囲まれ、北から南へと徐々に標高を下げていく。
標高500mから200mくらいの河に挟まれた広大な土地を“ジャジーラ(島)”という。
現在のバグダットより北の地域である。
そこをさらに二つに分け、アブド・エル・アジズ山とジンジャル山から北を上ジャジーラ、
それより南を下ジャジーラといった。
上ジャジーラは、紀元前6,000年中期に、農耕を主とした村落文化・ハッスーナ文化やハラフ文化が起こり、下ジャジーラのティグリス川中流のサマッラ(サマッラ文化)では年間降水量が少ないため、川を利用した灌漑農業が起こっている。
ジャジーラの下方は沖積平野で、川は肥沃な泥を運んでくるが、年間降水量はさらに少なく、また雨季には頻繁に洪水も起こり、自然の農業は出来ない。
紀元前5,000年頃、ユーフラテスが河口近くでいくつもの支流に分かれ、流れが緩やかになった当たりで灌漑農業のウバイド文化が始まる。
「歴史はシュメール(本来の発音はシュメル)にはじまる」といわれるが、シュメール人がメソポタミア南部へ現れるのは、紀元前4,000年後半である。
そして、紀元前3,000年代には、最古の都市文明(ウルク文化)が誕生する。
シュメール人は、どこからメソポタミアへやって来たのか、その地理的出自も言語も民族系統も解からず、今日“謎の民族”といわれている。
出土した彫像などから、黒い髪で顔は丸く、眉毛、鼻梁ともに太く、丸い大きな目を持っていたと考えられ、周辺の民族とは言語、文化などが違っていた。
「シュメール」という呼び名は、シュメールを滅ぼしたアッカド人の言葉である。
主に灌漑農業と牧畜を行い、またユーフラテスの水利を生かして各地との交易を行った。
その交易品は、金、銀、銅、ラピスラズリ等で、これらの多くの取引内容などの記録の必要性から、文字(絵文字→楔形文字へ)を生み出した。
また、記録をするための書記(官僚)を養成する学校なども作られた。
もっとも特徴的なのは、印章をあみ出したことである。
それは、日本の文化の中で使用されているのと同じように、個人を表すものと組織を現すものがあり、多くの文書あるいは契約書に使用されている。
また、スタンプ様の印章から円筒印章へと変化し、粘土の上を転がして荷物の封印や倉庫などの鍵代わりの封印に使われた。
この円筒印章は、専門の職人による精巧な彫刻が施されていて、護符として紐をつけて首から提げたりしていた。
シュメールは、ウル、ウルク、ウンマ、ラガシュ、ニップル、キシュ、パッシル等20以上の都市国家が存在し、各都市間では、交易や境界などをめぐって抗争を繰り返していたが、ウルクは政治的威信、ラガシュは都市の規模と経済力、ニップルはシュメールの最高神エンリルを祀る都市として他に抜きん出ていたという。
また、それぞれの都市は、個々に都市神を持ち、その神殿を中心に造られていた。
その神殿はジグラト(聖塔)といい、天にとどく階段といわれるように、20m以上も高さのあるもの等、いずれも高くそびえていた。
この場所は聖地とされ、民族が代っても、代々同じ場所に神殿が造られてきた。
「旧約聖書」のバビロンの「バベルの塔」も、シュメールと同じジグラトである。
紀元前2,300年頃には、シュメールも長年の灌漑で塩害による穀物の収穫が減り、国力も衰えてくる。
また周辺の北東山岳民族のグティ人や西セム語族のアモリ人の侵入に悩まされるようになる。
そして、川の中流域にあったセム語族(北アフリカ系)のアッカド王国のサルゴン王によって、メソポタミア南部は統一され、シュメールはアッカドの支配下に置かれる。
そして、シュメールの様々な文化は、アッカドへ受け継がれていく。
サルゴン王の孫である四代目ナラム・シン(四方世界の王)の時代は、東はペルシャ湾(下の海)、西は地中海(上の海)、アナトリア地方までを支配下におさめる。
ナラム・シンは、メソポタミアではじめて神格化(強大な軍事力と権力の誇示)された王である。
そのアッカドも、やがてグティ人に滅ぼされ、そのグティ人を追い出し、再びシュメールの王朝(ウル第三王朝)となるが、それもイランのエラムやアモリ人によって滅ぼされ、紀元前2,000年頃に、シュメールの民は歴史から消える。
その後も、様々な民族の王朝の興亡と殺戮と破壊が繰り返されてきたが、シュメールの様々な知恵は、それぞれの民族に継承消化され、その後の世界の様々な文化に通じるものが多数ある。
それゆえ、「歴史はシュメールにはじまる」といわれるのである。
ここで、私はメソポタミアに首を突っ込んだことに後悔をしている。
エジプトのように単一民族の興亡ではなく、死後の世界を求めて、壮麗な神殿を造ったのでもない。
ナイル川の氾濫は定期的なもので、人々は洪水を恐れてはいない。
シュメールは、いつ起きるともわからない大洪水(ノアの箱舟の原型となった)にたびたび見舞われ、すべてのものを失いながらも、そこに踏みとどまって、また立ち上がっていくメンタリティーは何なのか。
また、暮らしの中で農耕や牧畜の知恵を生み出し、行政機構や交易や流通、法律など、様々な文化を築いた人々の興亡の歴史は、複雑すぎて難解だ。
60マイルと 10マイル
ろうそくの明かりで 行けるかな?
行って 帰ってこられるよ
足がはやくて 軽ければ
ろうそくの明かりで 行けるとも
マザーグース(イギリスの童謡・古謡集)の中の歌である。
夜、子どもが眠る前に、そばにいる大人へ問いかけ、それに子守唄のように応えている情景を思い浮かべる。
小学生の頃、考古学者になってメソポタミアへ行きたいと思っていた。
なぜ、メソポタミアだったのか、今では全く覚えていない。
1960年代、ロンドンからネパールのカトマンズまで行くバスルートがあった。
それは「ヒッピーロード」と呼ばれ、ヨーロッパのヒッピーの若者たちの巡礼路であった。
その後、インドのデリー〜ロンドン間のルートも出来た。
いつか、そのバスへ乗ってシルクロードを西へたどり、東ローマ帝国の首都コンスタンティンノープル(イスタンブール)まで行ってみたかった。
パキスタンのイスラマバードを通り、ペシャワルでガンラーダへ寄って、カイバル峠を越えて、アジアハイウエーをアフガニスタンのカブールへ。
そこから、バーミヤンへちょっと寄り道をして、テヘランからはザグロス山脈を越えてバグダット、そしてバビロンへ。
それから、北のアッシリア帝国のニネヴェの都に立ち寄って、パルミナ、アレッポへ行ってアナトリアへ等々と、全く行ける見込みは無いが、いつかはという夢を抱いていた。
そのうち、旧ソ連のアフガン侵攻があり、それ以来このルートは途絶えたままだ。
よくよく考えてみると、私の興味は広い意味ではメソポタミアだが、それは南部のバビロニアではなく、北部のアッシリアだったり、アナトリアのヒッタイト王国だったりする。
最近、思い立って、またメソポタミアを少し学び始めた。
メソポタミアはギリシャ語で「川の間の土地」という意味である。
それは、東にティグリス川、西にユーフラテス川の二つの河に挟まれた土地で、人類最古の文明の発祥地である。
この二つの河は、北の東タウルス山脈を水源として、ユーフラテスは西アジア最長の川となり、ティグリスは急流の暴れ河となって、ともにペルシャ湾へ注ぐ。
現在は、河口近くで一つとなりシャットル・アラブ川となってペルシャ湾へ注ぐが、古代では、海はもっと内陸にあり、二つの川は分かれたままペルシャ湾へ注いでいた。
北方を西から東にかけて1,000mから2,000m以上の山に囲まれ、北から南へと徐々に標高を下げていく。
標高500mから200mくらいの河に挟まれた広大な土地を“ジャジーラ(島)”という。
現在のバグダットより北の地域である。
そこをさらに二つに分け、アブド・エル・アジズ山とジンジャル山から北を上ジャジーラ、
それより南を下ジャジーラといった。
上ジャジーラは、紀元前6,000年中期に、農耕を主とした村落文化・ハッスーナ文化やハラフ文化が起こり、下ジャジーラのティグリス川中流のサマッラ(サマッラ文化)では年間降水量が少ないため、川を利用した灌漑農業が起こっている。
ジャジーラの下方は沖積平野で、川は肥沃な泥を運んでくるが、年間降水量はさらに少なく、また雨季には頻繁に洪水も起こり、自然の農業は出来ない。
紀元前5,000年頃、ユーフラテスが河口近くでいくつもの支流に分かれ、流れが緩やかになった当たりで灌漑農業のウバイド文化が始まる。
「歴史はシュメール(本来の発音はシュメル)にはじまる」といわれるが、シュメール人がメソポタミア南部へ現れるのは、紀元前4,000年後半である。
そして、紀元前3,000年代には、最古の都市文明(ウルク文化)が誕生する。
シュメール人は、どこからメソポタミアへやって来たのか、その地理的出自も言語も民族系統も解からず、今日“謎の民族”といわれている。
出土した彫像などから、黒い髪で顔は丸く、眉毛、鼻梁ともに太く、丸い大きな目を持っていたと考えられ、周辺の民族とは言語、文化などが違っていた。
「シュメール」という呼び名は、シュメールを滅ぼしたアッカド人の言葉である。
主に灌漑農業と牧畜を行い、またユーフラテスの水利を生かして各地との交易を行った。
その交易品は、金、銀、銅、ラピスラズリ等で、これらの多くの取引内容などの記録の必要性から、文字(絵文字→楔形文字へ)を生み出した。
また、記録をするための書記(官僚)を養成する学校なども作られた。
もっとも特徴的なのは、印章をあみ出したことである。
それは、日本の文化の中で使用されているのと同じように、個人を表すものと組織を現すものがあり、多くの文書あるいは契約書に使用されている。
また、スタンプ様の印章から円筒印章へと変化し、粘土の上を転がして荷物の封印や倉庫などの鍵代わりの封印に使われた。
この円筒印章は、専門の職人による精巧な彫刻が施されていて、護符として紐をつけて首から提げたりしていた。
シュメールは、ウル、ウルク、ウンマ、ラガシュ、ニップル、キシュ、パッシル等20以上の都市国家が存在し、各都市間では、交易や境界などをめぐって抗争を繰り返していたが、ウルクは政治的威信、ラガシュは都市の規模と経済力、ニップルはシュメールの最高神エンリルを祀る都市として他に抜きん出ていたという。
また、それぞれの都市は、個々に都市神を持ち、その神殿を中心に造られていた。
その神殿はジグラト(聖塔)といい、天にとどく階段といわれるように、20m以上も高さのあるもの等、いずれも高くそびえていた。
この場所は聖地とされ、民族が代っても、代々同じ場所に神殿が造られてきた。
「旧約聖書」のバビロンの「バベルの塔」も、シュメールと同じジグラトである。
紀元前2,300年頃には、シュメールも長年の灌漑で塩害による穀物の収穫が減り、国力も衰えてくる。
また周辺の北東山岳民族のグティ人や西セム語族のアモリ人の侵入に悩まされるようになる。
そして、川の中流域にあったセム語族(北アフリカ系)のアッカド王国のサルゴン王によって、メソポタミア南部は統一され、シュメールはアッカドの支配下に置かれる。
そして、シュメールの様々な文化は、アッカドへ受け継がれていく。
サルゴン王の孫である四代目ナラム・シン(四方世界の王)の時代は、東はペルシャ湾(下の海)、西は地中海(上の海)、アナトリア地方までを支配下におさめる。
ナラム・シンは、メソポタミアではじめて神格化(強大な軍事力と権力の誇示)された王である。
そのアッカドも、やがてグティ人に滅ぼされ、そのグティ人を追い出し、再びシュメールの王朝(ウル第三王朝)となるが、それもイランのエラムやアモリ人によって滅ぼされ、紀元前2,000年頃に、シュメールの民は歴史から消える。
その後も、様々な民族の王朝の興亡と殺戮と破壊が繰り返されてきたが、シュメールの様々な知恵は、それぞれの民族に継承消化され、その後の世界の様々な文化に通じるものが多数ある。
それゆえ、「歴史はシュメールにはじまる」といわれるのである。
ここで、私はメソポタミアに首を突っ込んだことに後悔をしている。
エジプトのように単一民族の興亡ではなく、死後の世界を求めて、壮麗な神殿を造ったのでもない。
ナイル川の氾濫は定期的なもので、人々は洪水を恐れてはいない。
シュメールは、いつ起きるともわからない大洪水(ノアの箱舟の原型となった)にたびたび見舞われ、すべてのものを失いながらも、そこに踏みとどまって、また立ち上がっていくメンタリティーは何なのか。
また、暮らしの中で農耕や牧畜の知恵を生み出し、行政機構や交易や流通、法律など、様々な文化を築いた人々の興亡の歴史は、複雑すぎて難解だ。




